青春逃避行





*1 青春逃避行*

 いまでも、思い出してしまうことがある。

 卒業式を前日にひかえた、別れの春のことだった。授業はなく校内が不自然な静けさに包まれている中、私は机の中に置いたままの私物を取りに行った。下駄箱で上履きに履き替えて階段を上りながら高校生活を振り返り、卒業前日だったというのに卒業するという実感が全くなくて、やや困惑していた。それでも大学進学は決まっていたので、安泰ではあった。
 悲しみは結局、卒業して少し経ってからだった。
 三階にある自分の教室に着く頃には妙な感覚を抱いていた。こそばゆく、手持ちぶさたに似た気分だった。早く机の中にある教科書を取って帰ろうと考えていた。
 教室の引き戸に手をかけた。

「あれ?」

 引き戸を開けたと同時に聞こえてきたその声に私はひどく驚いた。人がいるとは思わず、両肩が少しはねた。「あれ?」とは私の心の声でもあった。

「なんだ、赤松くんか」

 なんだとは失礼だなとむくれながら、聞き覚えのある声に私の心はいささか穏やかではなくなっていた。驚いて震えた心臓が息を飲んだ感触はまだ残っている気さえする。
 透き通りながらも語気の鋭い声色を持つ同級生は少なかった。顔を見なくとも分かる、大人びた印象的な声。私は極めて冷静を装った。

「どうしたんだい、川本さん。こんなところで」

 同じクラスだった川本智子。席が隣だったこともあったが、喋ったことはこの時まであまりなかった。
「なんとなく、ぼうっとしていたかったの」
 川本は窓の席に座りながら外を見ていたようだった。窓は一箇所だけ開いており、少し冷たい春の風がカーテンをなびかせていた。同時に肩までかかる川本の黒髪も風に吹かれてゆらりと、セーラー服の大きな襟がさらりと揺れていた。

「赤松くんはどうしたの?」
「置きっぱなしの物を取りにきただけだよ。卒業式までに持って帰れという通告だからな」

 川本は興味なさそうに「そう」とだけ返事をした。そして、また意識を窓の外に向けて、私なんかはじめからからいなかったような態度をとった。訊ねておいて素っ気ない態度だったのに、しかし私は何も言えなかった。
 あの頃は女性が男性に強い口調で物を言ったり食いかかったりすると「なんだ、女のくせに」という風潮がまだ残っていた。だが、川本はそんな空気を一切気にせず物怖じもせず、男子や教師に接していた。当然、川本のことを気に入らない生徒や教師はいたが、当人はやはり気にもせず過ごしていた。私はそんな川本を悪くは思わなかったが、かといって積極的に関わろうともしなかった。
 だから話が続かないならそれでよかった。一年間、同じ教室で過ごしてきた仲ではあったが、さほど親しく接したことがない異性と二人きりになっても、嬉しさよりも戸惑いが先にくる年頃でもあった。ましてや相手が川本なら尚更だった。
 川本は一言でいうと、冷淡だった。遠くからながめる分には、言ってしまえば目の保養になるほどの美人だった。けれども、近づくと眼差しだけで圧迫感を覚えたことが何度もあった。
 ぼうっとしていたと言っていたし、無理に話さなくてもいいかと私は自分の机に足を向けてさっさと帰ろうとした。
 ところが川本は私を逃さそうはしなかった。

「ねえ」

 私の両肩がまたはねたことはよく覚えている。

「赤松くんは、進路は決まっているの?」

 体ごとこちらに視線を向けて、冷たい声を川本が投げかけてきた。
「ああ。おれは大学に行くよ」
 実のところ、私が行く大学は第一志望ではなかった。とはいえ、そこまで伝える義務も義理もなかったので私も素っ気ない返事をとった。第一志望ではない大学に進むこと自体については不満がなかったではない。ただ結果としては、決して悪いキャンパスライフではなかった。
「川本さんは?」
 訊かれたなら訊き返すのが社交辞令と思い、私は何の気なしに言ってみた。当然、川本の進路は知らなかった。それは仲が良い悪いかの話ではなく、単に情報が伝わってこなかっただけだった。この時、進路先を知らなかった同級生は他にもたくさんいた。
 私はそう、何の気なしに訊ねただけだったのだ。

「わたしは……」

 川本は黙ってしまった。当時の私は、言いにくいことなのか説明しづらいのか判らないが、別段知りたかったことではないから答えが返ってこなくても構わないと、川本を馬鹿にしたような心持ちで次の言葉を待っていた。返事がこない間に、教室に置いていた荷物を全て鞄に入れるくらい余裕たっぷりだった。川本はもはや置物にしか見えていなかったとも言っていい。
 帰ってしまおうか。
 考えた瞬間だった。

「嫁ぐんだ」

 同時に、風が吹いた。
 強い風だった。







2 嫋やかな君、健やかな君

 1

 少女のひとりは、教室の中心で同級生たちと他愛のない話をしていた。
 机の上に腰をかけて、自身の周りにいる同級生も机や椅子に座っていた。ただ、彼女たちが腰かけている机は彼女自身の席ではなく、他の同級生の席だ。しかし、それをとがめる生徒はだれもいない。他の同級生らは彼女たちに、少しの恐れを抱きながらも、占領していることを許しているのだ。
 それが少女のひとりと、その周りの人間の教室内における地位であり立場であった。

 少女のひとりは、教室の片隅でだれとも関わらず本を読んでいた。
 教室の扉を開けてから自身の席に座るまでわずかな音しか立てず、鞄から本を取り出す時も極めて静かだった。おそらく教室にいる同級生のほとんどは彼女が登校してきたことをまだ認識していないだろう。そして気づいている生徒も、彼女に声をかけようとはしない。彼女もまた、声を発そうとはしない。
 それが少女のひとりと、その周りの人間との距離感であった。

 だからこそ。
 だれもが予想だにしないだろう。
 ふたりの少女が、その昔はとても親しい間柄であったことを。

  2

 雨宮雫は他の子よりも少しだけ好奇心旺盛な、どこにでもいる普通の子だった。
 町を歩いていて知らないものがあれば指差して「あれ、なに?」とたずね、テレビで新商品が流れれば「これ、なんだろう!」とねだった。はやり物にも敏感で、学校で新しい流行があるとすぐに乗っていた。そのせいか人見知りはあまりしなかったし、友達は少なくなかった。
 それでも、特別なひとはいた。

 宵町結月は他の子よりも少しだけ本を読むことが好きな、どこにでもいる普通の子だった。
 外で遊ぶよりも家で親に絵本を読んでもらったり、落書き帳に本人しか分からないような絵を書いたりしていた。テレビにはあまり興味を示さず、自分の世界にこもっているようなところがあった。同世代の友達が多いとは言えなかったが、本人は気にした様子もなかった。
 それでも、特別なひとはいた。

 ふたりの出会いは、小学校の入学式までさかのぼる。雫と結月は、小学一年生のころからの知り合いだった。出席番号順に席が決められていたのにも関わらず、いつの間にか一緒になって遊ぶ仲になっていた。お互い、きっかけは忘れてしまい、当時の担任も少し不思議がっていたが、仲睦まじいふたりの姿を見て、野暮なことだと詮索はしなかった。
 外で複数の仲間と遊ぶことが多かった雫と、家でひとり過ごすことが多かった結月が一緒になって行動を共にしたのはおそらく、磁石のS極とN極がくっつくようなものだと、それぞれの両親は結論づけた。仲が良いことに越したことはないと温かく見守っていた。
 流行に敏感な雫が新しい物を手に入れると、結月にそれを披露する。すると、結月は「それ、なあに?」と興味を示してたずねた。内向的な性格の結月ではあったが、知らない物事への興味は雫に負けず劣らずといったところだった。
 結月が読んだ本を、雫が読むこともあった。「これ、おもしろいよ」と言って渡した作品は雫の心をくすぐって、よく感想を言いあっていた。
 雫が結月を外に連れ出し、結月が雫を家に引き込む。
 それが、ふたりの日常だった。






*3 ひだまりに寄り道*

 俺の眼にその姿が入り込んだとき、少女がセーラー服を着ていたことに全く気づかなかった。

「あ……っ」

 勝手に動いてしまったあごを固めてもう一度少女を見つめる。
 少女はつばの広い麦わら帽子を、なびく風に飛ばされないよう手で押さえながら、俺と少女の周りに広がる小さな花畑をながめていた。あごを上げて遠くを見つめているようなその姿に、太陽のスポットライトが浴びせられているような気がして、そして俺も少女のそばで温かみのある光を感じたいと、求めた。
 しかし、手を伸ばそうとしたところで、少女と目があってしまった。
 麦わら帽子の陰から見えた顔は、なぜだか儚げに見えた。
 どこかで覚えた罪悪感に体をゆだねて少女の視線をかわす。しかし、体の奥底から湧きあがる情感がすべてを拒むことは許そうとはせず、瞳は依然として少女をとらえていた。
 少女が、俺を認識してしまった。
 小さな丘に生えた黄色い花々の頂に立ち、広がる空を見上げ、広がる大地を見下ろし、揺れる麦わら帽子とセーラー服のスカートを押さえて、少女は動き出す。
 少女に自分の存在を知られてどうすればいいのかわからなくて動けずにいると、なんと向こうから近づいてくるではないか。
 心が一層、焦る。
 それなのに体は硬直して立ちつくし、少女の到来を今か今かと待ちわびているのだ。
 徐々にはっきりと見えてくる少女の風貌を日の光は照らし続ける。
 そして、

「こんにちは」

 太陽と風の祝福を受けたような声で、醒めた。
 目の前にいる少女は、花畑の舞台から舞い降りてきた天使でも役者でもなんでもない、一人の女の子だった。

「こ、こんにちは」
 自分でもはっきりとわかる裏返った声の返事に、しかし女の子は笑いも戸惑いもしなかった。それがかえって、足がすくむ。

「旅行ですか?」
 そう言いながら俺の体をまじまじを見つめてきた。半袖のシャツに薄手のズボンに小さめのかばんと、見どころは少ないけど、女の子はすぐに俺を旅行者と判断した。旅行者らしい装いではないはずだが、やはり地元の人間と、それ以外では雰囲気が違うのだろうか。
 こっちも負けじと、目の前にいる女の子を見つめる。今まで丘にいたのでわからなかったが、近くで見ると俺より頭ひとつ分くらい背が小さかった。顔つきはまだ幼さが残っていて、瞳は大きくて活発そうな印象があり、鼻や口も整っていた。セーラー服ではなく、運動着でも着ていれば、なかなか似合っていただろうと勝手に想像していたら、顔をこちらに向けた女の子と視線が重なった。

「お昼ごはんは、まだですか?」

「え?」
 突然の質問に、すぐには答えられなかった。

「ですから、お昼ごはんはもう食べてしまいましたか?」
「ああ。まだだよ」

 戸惑いながらも返答すると、女の子はにこりとまぶしい笑顔を見せてくれた。
「じゃあ、うちに来ませんか!」
 そう言って少し興奮しながら俺に、さらに歩み寄ってくる。腕を掴まれたわけでもないのに、俺は拘束されてしまった気分になって、心なしか体をのけぞっていた。
 出会った人に対していきなり、自分の家へ来ないかと誘うのは、屈託がないとか田舎だからとかは関係ない。いっそ不気味だった。
 それでも、女の子の提案を断ろうとする自分はいなかった。
 ゆっくりと頷くと、女の子はそれだけではちきれんばかりの輝きを見せた。

「こっち、こっちですよ!」

 有無を言わせない勢いで女の子は丘を下りていってしまった。その後ろを、引力を感じながら付いていく。先導する女の子の、簡素だが立派な麦わら帽子が、真上から照りつける太陽を一身に浴びているひまわりに見えて、その下に広がる白と紺色のセーラー服は小川のせせらぎに似た清涼感があった。シュシュでしばられた後ろ髪が、麦わら帽子からひょっこり出てゆらゆらと揺れている様は、まるで小さなゆりかごだ。
 少し見とれているうちに女の子との間に少し距離ができてしまい、下り坂のせいで歩みが速い女の子に合わせて俺も歩幅を広げた。やがて隣に追いつき横顔を見ようとしたが、麦わら帽子があるせいでちゃんとは見られなかった。

「ここから近いの?」
「ええ、すぐですよ」

 女の子の声はよく通る声が、前を向いたままでも耳の奥にすっと入ってくる。その声色も、少女の底抜けの明るさと元気いっぱいな心象をそのまま表現しているようで、抱いていたはずの不信感はすぐに氷解してしまった。
 丘を下りきる。そして、目で確認できる距離に一軒の家が見えた。

「あそこですよ」

 いい具合に年季の入った木造の建物。それが、どうやら女の子の住まいらしい。ということは、この丘は女の子にとって庭のようなものなのかもしれない。また、見通しがよくてすぐ近くにあるとはいえ、道路をまったく警戒していない様子で歩いているが、注意するほどでもないと十分にわかっているんだろう。
 軽やかに歩く女の子に連れられて、いよいよ家の前に着くと、俺はようやく理解した。
 建物は家というより、店だった。玄関は見あたらないし、目の前にある引き戸の扉は開きっぱなしで、上を向くと小さなのれんが見えた。






続きは本書で!



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