零れた胸の内



零れた胸の内 踏み出さない一歩 宵を結ぶ手のひら




*零れた胸の内*

 ひとまず今年度は今日で終了。一年間おつかれだ。
「あ、折木さん……」
 ドアが開く音とともに千反田が現れた。
 訂正、労いの言葉はまだ早かった。
 千反田がドアを閉めてこっちへ向かってくる。
 ゆっくりと歩く姿には品があり、長い黒髪と線の細い体は清楚なお嬢様の雰囲気を演出している。実際、千反田はお嬢様だ。この神山市に名を連ねる旧家名家のひとつ『豪農』千反田家の息女で慇懃な物腰はそこらのやつとはちょっと違う。
「鍵が貸し出されていたのでまさかと思いましたが、折木さんだったんですね」
「ああ、騒がしいからここでひまつぶしだ」
 活動内容が不明だからか、それとも部員面々の気質からか基本的に部室への顔出しは自由となっている。全員が集まるときもあればひとりで佇む日もさほど珍しくない。
 千反田が俺のそばの席に、丁寧に椅子を引いて座る。
「折木さんは、卒業されるひとへの挨拶はされたのですね」
「そもそも挨拶するような間柄の知り合いが三年にいない」
 あら、ともらして千反田はくすりと笑った。
「お前は家同士の付き合いとかで挨拶する相手が多そうだな」
 俺の社交辞令な質問を受けて千反田が居住まいを正した。
「そんなことないですよ。確かに家同士の付き合いでご存知のかたはいますが全員が三年生というわけではありません。神山高校に入ってから知り合った上級生はほとんどいないです」
 そういえばお前も古典部以外に所属していないんだっけか。
 ちなみに里志と伊原は違う。里志は手芸部と総務委員、伊原は漫画研究会と図書委員に入っている。それぞれお世話になったひとはいるだろう。挨拶が大変そうだ。
「まあ、いいんじゃないか。学校内でも家の交流を持ち込んだら疲れるだろ」
 もし古典部に上級生がいて、卒業するから祝いの席を設けようかとなったらまた面倒なことになりそうだと想像してみた。
 ふふ、とまた千反田に笑われた。
「そうですね。ここでも千反田の娘として振る舞うのは疲れるかもしれませんね。でも、家とは関係なく親しくさせていただいていますよ」
 穏やかに言われても俺には理解できない範疇だ。千反田と知り合ってそろそろ一年になるが『豪農』千反田家としての千反田えるの姿はほとんど見たことがない。正月に荒楠神社へ初詣に行ったときくらいか。あとは一度家に行って、なるほど『豪農』千反田家にふさわしいお屋敷を拝見したくらいなもんだ。
 まあ、まだ一年生。あと二年もある。その内、勝手に知ることになるだろう。
「ところで折木さん」
 ふいに呼ばれて千反田の顔を見る。するとなぜか困ったような様子でそわそわと体をゆらしている。緊張しているともいえるか。
「なんだ」
 そういえば部室に入ったとき、少し変だった。どんな感じかはうまく説明できないが普段の千反田と比べて少しおとなしすぎる。なぜなら千反田はただの清楚なお嬢様ではないからだ。
「その、折木さんはいままで手紙を受け取ったことはあるでしょうか……?」







*踏み出さない一歩*

 気づけば春の陽気は終わりを迎えていた。時の流れに身を任せれば夏の暑さが待っているが、その前に梅雨がある。雲が太陽を隠すのはかまわないが、雨が降るのはちと困る。必然と傘を差さねばならんし、差してもところどころ服がぬれる。開き直って差さずに歩けば風邪を引くだろう。俺は特別頭が良いとは思っていないが、格別な馬鹿だとも思っていない。
 だから、登校時は仕方ないが下校する時くらいは気にせず帰りたいと願い、天がその願いを叶えてくれるまで部室で本を読みながら待つのがここ最近の日課となっている。
 いま読んでいる作品はいわゆる「密室もの」のミステリーで、地下にある外部から切り離された建物で実験と称した殺人が行われる。事件が起きたあたりから面白くなってきて、気づけばページをめくる手が早くなっていた。
 部室である地学講義室には俺の他に千反田と伊原がいて、ふたりで何か話していることだけはわかっていた。しかし、席が離れていたし小説に熱中していたこともあってか、話の内容までは耳に届いていなかった。
 我に返ったのは、部室全体に伊原の声が響いたからだ。
「お見合い? ちーちゃん、お見合いするの!」
 その大声に驚いて何事かと部室全体を見回し、それから伊原たちに目を向けた。
 声を発した伊原摩耶花はよほど衝撃だったのか机から身を乗り出していた。そして、興奮している伊原を落ち着かせようとしている福部里志がいた。いや、さっきまではいなかったはずだが、いつのまに来ていたんだ。
 それから、伊原に迫られていながらも顔を沈ませている千反田えるがいた。
 俺の聞き間違えでなければ、われらが古典部の部長がお見合いをするといったような内容だったはず。最初は声に驚いたが落ち着いて話の内容を理解すると、確かに伊原が驚いてもおかしくないと思うようになった。
 俺は自分が座っていた席から離れ、三人のもとに近づく。
「あ、折木さん……」
 最初に気づいたのは千反田だった。
「どうしたんだ」
「いえ、その……」
 千反田は言葉をつまらせた。
 まあ、なんでもない、とは言えないよな。
 詳しいことを聞きたかったので俺は里志に視線を送った。千反田に説明させるのは難しそうだし、伊原は俺の存在をまだ気づいていないのかずっと千反田を見ている。
 幸い、里志は視線だけで理解してくれた。さすがに中学からの付き合いだ。早くて助かる。
「いや、ぼくらも詳しいことは聞いていないんだ」
 ところがまだだったようだ。まあ、千反田はときどき説明もせずいきなり結論を言うことがある。おそらくだが、話をしているうちに千反田の様子が変だと感じた伊原がたずねたら、といったところだろう。
 うつむきながら制服のスカートを両手でぎゅっとつかむ千反田。その姿ははたから見ると通夜にでも参加しているのかと思うほど淀んでいる。
「わかりました。みなさんには、最初からお話します」
 やがて、決心したのか、顔を上げて俺たちの顔をゆっくりと見てきた。






*宵を結ぶ手のひら*

 左からは子どものけたたましい金切り声が耳に付き、右からは大人のかしましい話し声が耳に入る、ここは花火大会の祭り会場となっている公園。我ら古典部一同は夏季休業期間中の活動を特に行っていない。しかし本日は訳あって四人全員が集結した。
 きっかけは昼ごろにかかってきた一本の電話。つい先日のことだ。

「もしもし、千反田です。お休みのところ、すみません」
 俺たちが学校外で集まることはほとんどなく、電話が来ることも里志ですら用がないとお互いかけることはない。同様に、千反田からの電話も大抵、用があってのことだ。
「突然ですが、明後日はご予定が入っていますか?」
 受話器をつかんでいない左手でうちわを仰ぎながら少し考えたふりをする。
「いや、ないぞ」
 明後日どころかこの夏、予定が埋まっている日なんてあっただろうか。あるにはあるだろうが暑さで頭が働かない。とにかく明後日は問題ことだけは思い出せた。
「先日、摩耶花さんとお話をした際に夏祭りが話題に上がったんです」
「ほう、そうか」
「それで、古典部の皆さんで一緒に行きましょうという話になりました」
「なるほどな。それで俺に電話してきたのか」
 この日の千反田は結論を先走ることなく説明をしてきた。それまではろくな説明もせずいきなり結論を言うことが多かった。この場合ならいきなり「夏祭りに行きませんか?」といったところか。一年経って千反田も少しは学習してくれたみたいだ。
「ぜひ折木さんも、行きませんか?」
 うちわを仰ぎながら今度こそ考える。誘いを断る理由は特にない。あるとすれば財布の中身と夏祭りへ行くことによるエネルギー消耗か。しかし、どちらも夏休みに入ってからさほど消費した覚えはなかった。
「たまにはいいか」
「本当ですか!」
 受話器の向こうから甲高い声が聞こえる。思わず耳を離した。そんなに喜ばしいことなのか。まあ、思い出に残る夏休みの出来事がひとつくらいあってもいいだろう。
「では当日の集合時間と場所をお伝えしたいと思いますがよろしいですか?」
「ちょっと待ってくれ。いまメモ帳を持ってくる」
 受話器から手を離してメモ帳とペンを持ってきて千反田の言葉をもらさず書いた。そして、集合時間を聞いて、昼でなくて良かったと心の底から安堵した。電話では最初、花火大会とは言ってなかったから、もし、昼から開催される祭りだったら、返事を変えていたかもしれない。







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