いただき



 人には好き嫌い、得意不得意がある。誰にだって、必ずある。
 僕は国語や社会は出来る方だが、数学や理科は苦手だ。いわゆる文系の人間だと思う。
 だけど、国語でも古典はあまり好きではなく、社会も地理の方は同じくあまり。逆に数学は単純計算や、暗算でスラスラ解けると気持ち良い。
 そして、普段、理科分野は好きではないのだが……。
「それ、何の本?」
「……あ、え?」
 最初、自分に対して言ったものではないと思い、一瞬反応が遅れてしまった。
 本から目を離し、首を少し上に向けると一人のクラスメイトが立っていた。いや、同じ高校のクラスメイト兼同じ塾のクラスメイトと言えば正確か。
「えっと、世界の風景とかを写したやつだよ」
 そこには写真家が撮影した世界の様々な風景とかが載っている。とは言っても一冊の本に全てを見せようとしたら中々のページ数になってしまうので、つまりこれはその中の上巻みたいなものだ。
「あんた、そういうの好きねぇ」
 僕がこういうのを読んだりしている所は別に珍しくはない。学校でも時間が空いていると読書として時々ふけている。彼女はそれをよく知る人物の一人だ。
「まぁ、これが僕の趣味ってことで」
「それは構わないし今更特に言う事もないけど、見てて面白い?」
「特に言っているよ」
 目付きが厳しくなったのでこれ以上余計な事は言わないでおこう。
 確かに見ていて面白い、と問われると正直……考えものだ。
「本物が見られれば一番良いんだけど……ね」
 流石に学生という身分で世界一周とかは出来ないし、まずお金がない。あと、写真の趣味は無い。本物が見たいだけなんだ。生で見るからこそ意味がある……なんて。
「なんか、それってまるでアレだね」
「あ、アレって……」
 少し嫌な予感がしてきた。
「言っていいの?」
「……言えるものなら」
「あ、そう、じゃあ言うよ。だから、それってまるで――」
「わーわーわー! やっぱりダメッ!!」
 思わず大声を出してしまい、周りの人は僕らに目線を注ぎ、何だ何だ? と興味と疑問の眼差しで見つめている。わ、我ながら恥ずかしい……。
「全く……女の子の言う事じゃないよ……」
「あら、一体何を想像したのかしら?」
 ……………この子は……………はぁ。
 何だか妙に疲労感を得た気分になり、机へ倒れるように伏せた。
「私に勝とうなんてまだまだよ」
 別に勝とうとかなんて思っちゃいないよ、と言おうと思ったけどそんな気力も無かった。もう、好きにして下さい。
 勝者の余韻に浸っているのか、笑いながら急に僕の頭をツンツンと突付いてきた。顔を上げると、その瞬間スッと下敷きになっていた本が奪い取られてしまった。
 普段の僕なら直ぐ取り返そうするのだが、今は歯向かわない方が良いと体が勝手に反応したのか動こうとしない。というか、動きたくない。
 前の椅子に座りつつこっちを向いてパラパラと僕の本を眺めていて、ふーん、と何か思うところがあるのか、彼女は少し黙ってしまった。ついでに周囲の目もとっくに無いのでこのまま気軽に仮眠タイムへと移る事が出来る。
「ねぇねぇ、ちょっといい?」
 ……やっぱり、そう上手く行かないか。
 渋々体を起こして質問に答える準備をする。
「これってさ――」
 そこから僕と彼女の質問合戦が始まった。と、言っても彼女の質問とかに僕が分かる範囲内で答えるだけで、普通の雑談と何ら変わりはない。
 写真の風景についてなら多少言えると思うけど、他の事、それこそ写真の技法なんかについては全く分からない。
 そもそも僕はそういう事に関して知識がない。何故オーロラが出来るのか、何故流星群が発生するのか、全く知らない。知ろうとも思わない。そりゃ、興味ある事についてはやっぱり知りたいとは思うし、知った方が楽しいとは思うかもしれないけど……何て言えば良いのかな。そういう事を知るよりも自分が感じる事の方が大切だから、って感じかな? うーん、上手く言えないなぁ……。
「お、二人とも、何やってんの?」
 僕らは夢中になっていたのか、この声を聞いてようやく目の前にいることが分かった。
「またこいつの何時ものやつよ」
 そっちが話を持ち出してきたんでしょ……、なんて思っても口には出せないのが悲しい。
「またかー。好きだな、お前も」
「うん、なんかこういうの好きなんだよね。幻想的というか神秘的というか、そういうのを見ると心が何とも言えない感じになって、まるで……」
「……ポエマー?」
「確かに、中々恥ずかしい事言ってるな」
 ……こう、真面目に言った時に限って真面目に受け止めてくれないんだよなぁ。確かに自分でも恥ずかしいとは思うけど、もうちょっと共感とかしてくれても良いんじゃない? なんて言って頷いてくれるならこんな事言われないはずだから、つまり……。
「まぁ、あんたらしくて良いんじゃない?」
 そう言いつつニヤけている顔を向けられても、いまいち鵜呑みが出来ない。全く、何時か僕はこういう役回りになっていたのか、タイムマシンでもあれば過去の自分に言っておきたいよ。あぁ、でもそれこそ鵜呑み出来ないかな。
「しっかし、お前、折角の夏休みなんだし、どっか行かないのか?」
 考えが脱線しているところに突如訊かれたので、思わず声を裏返して「へ?」と言ってしまった。
「うーん、やっぱり一人で行くのはちょっと……。お金の方もキツイし」
 幻想的な神秘的なものを見に行くには現実的なものも見なければならないなんて、ちょっとした皮肉に思えて少し面白かっ……やっぱ、前言撤回。
 でも、実際、引っかかるのはそこなんだよね。
 学校や何かの一環で行くなら親が出してくれるなら悠々と行けるんだけど、自費で遠い所は……やっぱりね。心配もされるだろうし。
「近い所なら別に平気じゃね?」
「この都会から近い所と言っても……正直、さほど得られそうにない気がするんだけど」
 電車一本で行けてしまう範囲にあるものって、どうも僕が求めているそういうものが無さそうに思えてしまう。勿論、それは独断と偏見なのは承知だけど、やっぱりどうせなら、それこそ海外まで行って味わいたいな。
「ふん、そうやって馬鹿にして食わず嫌いやっているからダメなんだよ。第一、いきなり遠い所だと万が一の時大変だろ。だったら、まずは身近な所で慣れてから本当に行きたい所へ行けばいいんだよ」
 何だか説教モードに入ってしまったようだが、言い分は分かる。決して間違ってはいけない。やっぱり僕が求めているものは山に登ったりしないと得られない。それなのに、何も知らず挑んでも死に行くようなもんだ。
「流石、山岳部だね」
 褒めたつもりはなかったけど、言われた方は鼻を高めて、ふん、と軽く笑った。
「あんたには縁の無さそうな所ね」
 相手は違うけど、僕は逆に貶された。
「やっぱり大変なんでしょ?」
 山岳部、なんて名前を聞いた時点ですごくハードな部活に思えてくる。こう、重い荷物を背負って落ちたらまず即死する崖を必死に渡り頂上を目指す。もしかしたら他の運動部よりも過酷なんじゃないか。
「大丈夫。お前が想像する程の事を高校生がやったら、本当に死者出そうだからそこまではしないよ」
「ていうか、それって完璧CMの影響よね」
 あ、バレた?
 それよりも……勝手に人の心読まないで……。
「「ふっ……」」
「何その微笑……」
「「いやー、別に?」」
 そうですか。
 なんかまた疲れてきた気がして、今度こそ授業が始まるまで寝ようかと思った。疲れたのは肉体というか精神だと思うけど。
「むしろ今年はあんまりキツくない感じするって、先生が言ってたよ。実際キツくないし」
「あー、山岳部の顧問って確か……」
「如何にも『体力ありません』って感じだけど、実は結構あるんだよな。まぁ、そうじゃなきゃ山岳部の顧問なんかやれないけどな」
「うっそー、想像出来ないー」
 どうやら僕は無視して話が進んでいるようだ。一向に構わないので、今の内にさっさと深い闇の底に辿り着こう。
「で、さ。今年の夏も合宿というか泊まりでどっか行くんだけど、今年の方針通りそんなにハードな所にはせず、ハイキングやピクニック感覚で行けるような所にするつもりなんだって」
 あの先生らしいと言えばそれまでだけど……、良いのだろうか、それで。
「だーかーらー」
 その声と共に僕の頭の上に突如何かが乗った。次に五箇所から力が入り――、
「イタタタタッ! 痛いってば!」
 予想通り、結局僕の安眠は妨害されてしまい、体が思いっきり起き上がってしまった。
「この機会に山岳部に入らないかい?」
 次に来た言葉は、正にトンデモナイものだった。
「……もしかして、僕に言っている?」
 冗談だと思う。それか皮肉か何か。先程まで散々罵っていた、山岳部顧問の温和なお方並にひ弱そうに見える等と以前言った、この僕に対して放たれたものではない。うん、今のは聞き間違えか、もしくは空耳か何かだろう。
「はいはい。そうやって現実逃避しないの」
「もしかして、風景とかが好きなのも現実逃避が出来るからだったりして」
「……で、何?」
 一応知らない振りをしておく。聞こえない振りでもなんでもいい。さっきの発言が嘘でありたい。嘘であってくれ。
「いや、だからつまり、今年はそんなに辛くないって話だから、折角だし一緒に合宿行かないか? ってお誘いだ。どうだ、良くね?」
「良くない」
 スッパリと即答。これ以上付き合ったら嫌な方向にしか行かない、と僕の第六感が危険を伝えている。
 別に体を動かす事は嫌いじゃない。小学生の頃は昼休みによくドッヂボールとかをやっていた。山もハイキングとかピクニックで何度か行った事はある。
 でも、部活で行く山は違う。同じ『ハイキング』という言葉でも意味が違う、度合いが違う。日々練習して体力をつけている人たちと、いきなり一緒に行って大丈夫な訳がない。
「というかそもそも部員じゃない僕が行ける訳ないでしょ」
 そういえば、といった感じの反応も彼女をとった。だが、当人は考えもなしに言う訳ないだろ、と平然とした様相のままだった。
「いやー、実は既に行き先とか全部決まっていたんだけど、部員が一人急遽参加出来なくなってどうするか――って話になっていたんだよ。だから、今ならまだ間に合う」
 間に合っても……ねぇ。頼む、もう一人分の料金浮かす方向で進んでいて下さい。
 何ゆえ、中学時代に1500メートル走でずっと七分台を弾き出していた僕が突如その人の代打バッター(バッターじゃない)で出場しなければならないのですか。
「ほらほら、止めてあげなよ。こいつにはそんな事、絶対無理だって」
 彼女がそう言って止めようとしてくれた。それは味方になってくれているという事なので、本来は喜ばしい事だ。
 ……でも、何故か、素直に喜べない。むしろ、逆の気持ちが湧き上がる。
 普段は何を言われて、そこまで腹が立つまでは至らない。なんだかんだ言って、彼女と話したりするのは楽しい。だから、多少弄られても、それはそれで面白い。
 だけど、この時は違った。その原因や理由は解らない。だけど、喜怒哀楽の喜や楽の感情は無く……残りの二つである怒や哀の感情が強く出てしまう。
 今は必死に抑えて表面上に出さないようにしているが、まさかこんな感じになるなんて、自分の事なのに他人事のように驚いている。
「……いいよ、参加する」
「「えっ!?」」
 揃って同じ反応が返ってきた。内心、正直自分でも何で言ってしまったんだ、と少し嘆きを始めそうになったが後戻りはしない。
 見返したい。あの言葉を取り消して欲しい。何故だか、強く思った。
「いいのか?」
「ちょ、止めなよ! 冗談に対して本気で答えても面白くないよ」
「いや、俺は別に冗談で言ったつもりはそんなに無いんだが」
「今はそういう問題じゃないでしょ!」
 二人が多分、僕の為に言い合っている。一方は賛成、一方は反対の意見。でも、それは第三者だけで進められている。僕の気持ちや意見は一切含まれていない。
 教室が妙に静かに感じた。勿論他の人も普通に喋っている。けれど、僕の耳や頭はいやに冷静な状態を保っている。それがどんな意味なのか、僕も分からないが……きっと今ここで自分を見失ったり忘れたりしたらいけないんだと思う。
「嘘でも冗談でもないよ。どんなものか行ってみたい。もし、まだ大丈夫だったら先生に言ってくれないかな?」
 だから、凄く普通に言えた。言葉に強さも弱さも無い。何時もの自分が言えた。
「あ……、ああ、分かった。じゃあ、今日にでも先生に言っておくよ」
 彼は多少動揺していたが、直ぐにこちらを真っ直ぐ見て頷いてくれた。
「……………」
 彼女は、やっぱり反対していたから簡単には納得していない様子だ。でも、僕自身が言った事だから何か言っても無駄だ、と思ったのだろうか。黙ったままだ。
 何時もの僕なら二人の間に入って、まぁまぁ、とか言って中立的な立場を取ろうとするけれども、気付けば二人から攻められて慌てたり混乱したり、虐められたりしていた。それが普段の僕と……彼女たちとの流れだった。
「……好きにすれば」
 最後にそう言い放って彼女は席を立った。これ以上は居座れなくなったのだと思う。正直、この話題で何時までも繰り広げるのは少々馬鹿馬鹿しいというか……見っとも無いというか、まぁ、良い事ではない。だから終わりを告げる為に何処かへ行ってしまったんだと思う。
「……いいのか?」
「ん? 何が?」
「いや、なんでもねぇ」
 彼が何を言いたかったのかは詳しくは分からなかったが、きっと彼女の事だとは思う。でも、そうは思っても何もしない。今行っても追い返されるか色々言われそうだし、なんとなく行きたくない。
「それよりもさ、その山登りの件について話そうよ」
「あ、ああ。そうだな。えっと、まずは――」
 それから僕は彼とずっと話していた。彼女が戻ってきたのは、先生が来ると同時だった。そして、席は替えなかったが、一切話をしなかった。
 終わったら直ぐ帰ってしまった。
 結局、その後も機会が無かった。


 そういう事で某日、参加に当たっての説明をするということで学校に行った。一応誘ったからには面倒を見なければならない責任がある、等と分かるような分からない理由で一緒に参加、というか説明をしてくれた。
 先生と二人でも特に何か思うところがある訳でもないが、やっぱり友人がいた方が気が楽と言えばそうだ。
 実際その前に色々と尋ねていたので、今日の事前指導は殆ど再確認をする為にある。だからと言ってボーっとしていると超少人数なので直ぐバレてしまうので注意。まぁ、するつもりはないけどね。
 じゃあ、そういう事を言うな、という頭の中で一人二役の謎のコント(すら怪しい事)をしていたら本当に左耳から右耳になりそうだった。危ない危ない……。
「――以上で、大まかな流れは終わるけど、何か質問とかあるかな?」
 ふいに先生が言ってきたので少し焦ってしまった。
「いえ、特に。多分大丈夫だと思います」
 なら安心だね、と笑みを零す先生。一応それなりに信頼を得ているみたいだ。いや、単純に鵜呑みしているだけかな。でも、こういう何も考えていなさそうな人ほど実は物凄く考えて行動している……なんて風に見えないな。そんな気配が全く感じられない。
「さて、後は……」
 今僕が何を考えているのか全く分からないであろう山岳部の顧問は、何やらさらにプリントを一枚僕の手元に置いた。
「はいこれ」
 ……………。
「え」
 何それ。
「あれ、言ってなかったっけ?」
 まるで今まで存在はしていたけど登場はしていなかったような山岳部員、何気に副部長はあっけらかんと放った。
「……聞いていない」
 こないだの時も、今も、全く。
「なんだ、話していなかったのか」
 文体だけでは多少叱っているようにも思えてくるが、怒気がまるで無い。
「すみません、忘れていました」
 同じく、反省の念がまるで無い。なんて……のほほん? とした部活なんだ。
「まぁ、でも、参加するならどの道入らないといけないからね」
 と言って更に目の前と近付く『入部願』の文字。
 ……別に、山岳部が嫌な訳じゃない。ここまで来たなら行きたい。行かなかったら絶対後悔すると思う。だが、しかし。
「なんかこの後もズルズル部員と扱われて行きそうな気がしてならない、って顔だな」
 どんな顔だよ。
「いーじゃん、それはそれで」
「良くない」
「そんなにキツくないと思うぞ?」
「そういう問題じゃない」
 なんというか、こう、言葉に表しにくいものが沸々と出てきて、それがどうも嫌な感じがして、上手く説明出来ないが、簡単に言えば。
「嫌な予感がする」
 これまで培ってきた僕の第六感がそう告げている。特に最近クラスメイト数名によくヤられている所為か、妙に敏感になった。
 勿論、全て正しいとは限らない。杞憂だったりする事もある。たまにそんな事はないだろうと思ってしまって結局そんな事あった、なんてケースもあったけど。
「ほれほれ、いーからとっととサインしちまいな。どっちにしても行くには今からでも部員扱いしないといけないんだし、退部したいなら終わった後直ぐやっちゃえばいいんだよ。別に俺や先生とかは理由知っているんだし、気にする事ないって」
 そうそう、と先生も頷いてくれている。
 確かにその通りだとは思う。これから数日を共にする人たちにも説明すれば特に問題はないはずだ。なのに、だけど、何故か素直に、はい、と言えない。
 理由はなんとなく解る。それが本当に正しいのかどうか、自分の事なのに少し戸惑ってしまうが、一応言ってみる。
 ……入って、直ぐ、辞めた、なんて、変、だから、かな。
 それだけ。それだけ、だけど……なんか、ね。
「部員になるのが嫌なら、なんとか部員じゃなくても行けるようにやってみようか?」
「え、あ……いえ、そ、そこまでじゃないですよ」
 しまった。先生に要らぬ心配を掛けてしまった……。全く、迷惑を掛けるなら直ぐ名前を書けば良かった。どちらにせよ、最終的には迷惑を掛けるんだし。
「判子とかは要るんですか?」
「いや、別に良いよ。多分大丈夫。駄目だったら後でもう一度お願いするね」
 それは教師として良いのか、多少気になるし、それで本当は問題だったのに問題にならなかったら、ますますこの学校に疑いの眼を向けてしまいたくなる。
 でも、今はとりあえず行ける事の嬉しさを噛み締めよう。
「当日はよろしく頼むよ」
「おう、任せておけ」


 山登りをするなら、やっぱり朝早くからの方が良いらしい。というか、泊まる所に早く着かないと大変らしい。山の天気は変わり易いし、夜は夏でも結構冷えるらしいし、暗いと危ないだろうし。
 家から学校までそれなりに時間がかかる為、何時も七時の半ば辺りに起きる僕だが、この日はそれよりももっと早く、久々の六時台だった。
 毎日眠たい目を擦っているが、今回は緊張していたのか、パッと目が覚めた。寝た時間は早くも遅くもなかったと思うけど……イベント事だと結構目覚めが良い体質なのかな。
 結果的には遅刻をせずに無事集合場所に着けたので特にどうこうは言わない。むしろ有難い。これで「遅刻しました〜!」と駆け込んできたら羞恥心と罪悪感が相俟って、そのまま三途の川まで走って逝きそう……。
 なのに。
「すまんすまーん、遅れた〜」
 ……羞恥心も罪悪感も一切見えない登場の仕方をした副部長だった。
「じゃあこれで全員揃ったね。電車はまだだから気にしなくて良いよ」
 良いのか、これで良いのか、山岳部。
 それよりも……なんか自分のキャラクターが少しおかしくなっているような気がしてきて、色々な面で山岳部を恐ろしいと思ってしまった。
「今日は合宿だしな、多少覚悟しとけよ」
 ……結局は一切何も変わっていないのかもしれない。
 そのままゾロゾロとホームへ向かう山岳部一向、総勢十八名。二年生が一番多く、三年生は受験の為既に引退した人もいるそうだ。
 最初は知らない人ばっかりだったらどうしよう、なんて不安もあったけど、こうして見ると知っている顔の方が多いような気がしてきたのでどうやら杞憂だったようだ。
 去年、一緒のクラスだった人と話したりして、電車が来るまでの時間は過ぎて行った。
 夏休みで山の方へ向かう電車ともあって、乗車人数は少ない。いるとすれば、僕らみたいな格好や年配の方々が占めている。
 周りに人があんまりいないからと言って騒いで良いという訳ではないが、皆のテンションは既に高まっており、笑い声が幾つも聞こえ、トランプで遊んでいる人もいれば、外の景色を眺めている人もいる。
 僕はと言うと、景色を眺めつつ雑談をしている。流石に子供みたいに座っている席の後ろの窓を眺めたりはせず少し体を捻る程度、もしくは反対側の景色を見たりしている。
 最初は見慣れた風景ばかりだったが、少しずつ、そしてある駅を境に一気に建造物よりも自然が占めるようになった。
 友達と話しながら、景色を見ながら、そうして徐々に目的地へ向かって行く僕ら。他愛の無い事かもしれないけど、なんだかこういうのも悪くは……、いや、良い。
 ちょっとだけ、あの日の発言と思考を無かった事にしたくなってしまった。
 そして、そんな風にのんびりと過ごしていたら、気付けば到着していた。
 なんかもう、既に、結構満足気味だったりするんだけど、本番はこれからだったりする。僕としては今から引き返しても良いかも――なんて考えが出ているが、それはきっとこれから待ち受ける苦難の道のりを勝手に想像して勝手に願っているだけだと思う。
 駅から出て直ぐという話じゃないのが、また、こう、不安に駆られてしまう。でも、これはきっと僕だけなのだろう。他の皆は悠々と歩きながらふざけている。
 舗装された山道を歩き、景色を見ながらとぼとぼと歩いているが、スタート地点はまだかと既に思っている自分がいる。
 今は夏。とっても暑い。しかも、山は半袖だと危険なので、長袖を着用させられている。さらに電車の中は冷房が効いていたので、出た時のむわ〜っとした感じは普段よりも一層強く感じさせる。
 電車の中とは一転した僕の状態に、既に笑っている者が一名いるが、最早そこに何か言う気力すら生まれてこない。先生も、まぁ、仕方ないか、等と思っているに違いない。
 結局、先生の「ここから山道に入りますよ」という言葉はそれから十分以上も経ってからだった。この時ほど、体力の無い自分に恥じた事はなかったと思う。
 幾つかの注意点等を説明した後、いよいよ始まったのだが、僕は前から二番目、ほぼ先頭になって歩くことになった。
 ペースメーカーとして一番遅いであろう初参加の僕が前になることで、後方との乱れが無くなる、そんな感じらしい。余裕の人は遅く感じる、それ位でも一向に構わないらしい。なんせちょっとした事が大惨事になりかねないのだから、慎重になるのは確かだ。
 ちなみに先頭は、
「俺がいるから大丈夫だろう」
 と特に得意気の様子も無く得意気に思える発言だった。
 腐っても副部長、と言ったところか。ついでに僕の事を考えた起用のだと思う。あと、真ん中辺りに部長さんが、最後尾に先生がいる。
 なんか悪いなぁとは思ったけど、何時もこんな感じらしい。
 前後で何が起こるか分からないから、万が一起きた時の対処がし易いように部長と副部長、そして顧問をバランス良く配置した隊形。
 結果的に事故も何も起こらなかったので良かったと言えば良かったのだが、僕自身の体力がかなり消費していて、休憩も多かったと思われる。また、真面目に心配されて荷物を持とうか、と問われたのだが、流石にそこまでしてもらわれると居た堪れない感じなってしまうので断った。
 しかし、向こうからして見れば休憩の時や景色が見えた時に僕が持参したカメラで写真を撮っている余裕があるならとっとと……、と思っただろうがそこまで気が回らなかった。
 殆ど気力で登っていた為、周りを気にする余裕が無かったのと、この両目に飛び込んでくる様々な景色をそのまま通り過ぎる事が出来なかったからだ。
 僕の心はすっかり奪われていた。


「それじゃあ、今日はここに泊まる事に当たって、幾つか注意点があります」
 ようやく本日の終着点に辿り着いた僕らは先生のお話や、ここに住み込みで働いている宿舎の人のお話を聞き、それから自由時間となる。
 余裕を見ての行動だったので晩御飯まで時間が余っているとか。その間に寝る場所を決めたりこの辺りを散策したり出来るらしい。
 ……勿論、それはまだまだ元気が有り余っている人の行動で、僕はと言うと、入口から直ぐにある適当な場所へ崩れ落ちるように倒れてそのまま動かせられない。
「だらしないなぁ、お前」
 どうせ何時もの事だろ、とかそんな返事すらも出来なかった。というか、こうやって頭の中で考えているのも億劫だったりする。
 でも、ここへ着くまでに見た景色の事は今も焼き付いて消えない。
 山の中から見た他の山々、川のせせらぎ、僅かに彩る花、生い茂る草、たくましくそびえる木々。その草花たちと共に営みをしている虫や動物たち。
 山は自然の大きな塊だ。大小様々な自然が数え切れない程存在する。
 全てをこのカメラに収める事なんて出来ない。いや、『カメラに収める』なんて事すら不可能なのかもしれない。
 僕はまだこの中の少ししか見ていない、味わえていない。まだまだ世界には無数の感動が今日も何処かで起こっている。
 ……少しの後悔と、沢山の感動は、少なくともこれまでの僕には無かった。
 山岳部は己の心身を鍛える為に存在するだけではないのだろう。何の為に『山岳』部という言葉でこの団体は出来ているのか。僕は今まで分かっていなかった。ようやく分かり始めたばかり、いや、まだまだなのかもしれない。
 決して経験する事のないもの。それをほんの少しだけ味わえる。それが部活動。今まで面倒臭いや疲れる、と言った怠惰で適当な理由で遠ざけていたものが、これほどのものだったとは……。蓋を開けずに食べようとしない、とんだ食わず嫌いがいたもんだ。
 そんな風に考えると、今回の選択は決して間違えではなかったと思うし、僕がこれまでに本を媒体にして見ていたものをこれからも信じて行ける。あと、今までお金が無いとかまだ学生だから、という理由で遠ざけていた自分が少し恥ずかしくなって来た。
「どうした、なんかニヤけていて、気持ち悪いぞ」
 ほんの少しの悪ふざけと多大な心配をしてくれている親友の言葉も、今は何故か清々しく聞こえて、何処か温かく感じた。


 夕食は山の中なので贅沢は言えないが、やはりエネルギーを消費した体にはそれなりの物が欲しい。それで尚且つ、大部分の人が喜んで食べられるような物。
 と言ったら、他にもあるかもしれないが、僕の中ではカレーライスが一番初めに思い付く。辛いのが苦手な人にも大丈夫なように甘口以上中辛以下という感じにしてくれた宿舎の人をここは称えねばならない。この、辛さが絶妙で次から次へと口に運んでしまうが水はそこまで求めてはせず、しかし熱さと暑さで体にある汗腺の至る所から水が流れ出て来てしまう。
 なんて少し豪快に語る僕は少なくとも普段よりも空腹で仕方なかったらしい。やはり歩き続けた所為だろう。水も欲しかったけど、事前に置かれた分を皆で飲み干した後カレーライスの登場で一旦頭の中から離れて不要と見なされた。
 気付けば普段の二倍は食べていただろう。お腹の辺りに小さな丘が出来ていた。正直、ちょっと苦しい……。無茶をし過ぎたが、それは他の皆も同じの様子で、それを見ていた大人たちは何だか嬉しそうにしていた。
 食事の後は自由時間。と言っても、明日は普段からは考えられない程早く起きる為、就寝時間も早い。よってそこまである訳でもない。
 しかし、山の中なので……入浴が出来ない分、本来それに回す時間を別の事に置き換える事は出来る。まぁ、お風呂の代わりにタオルとかで体を拭いたりはするけど。
 この頃には僕の体力も回復してきたので一緒に遊んだりするという事も出来るとは思うが、それはせずに、先生の所へ行った。
「あの……、ちょっと上の方へ行っていいですか?」
 先生用の小さい部屋で一人何かの準備をしていた先生は、僕の声に少し驚いたようだが普段通り接してくれた。
「いや、その、夕飯前に皆は探索していたらしいのですが、僕はずっと休んでいたので行かなかったんで、ちょっと行った所に見晴らしの良い場所があったと言う話を聞いて……行ってみたいなぁ、と」
 ここに着いた時の注意点として例え複数でも遠くまで行ってはいけないとあったが、その件に当てはまるか、勿論それを承知の上で訊いたのである。
 先生は少し悩んだ風に見えたが、何時もの口調で、
「あんまり遅くなるなよ」
 と、要するに許可してくれた。
 そういう事で友達たちにも一応声を掛けて行ってみる事にした。夕方の景色も見てみたかったが、夜の星空も見てみたい。
 山なので天気は変わり易いので、もしかしたら曇っているかもしれないが、そこはもう天に運を任せるしかない。
 バッグからカメラや上着と出来るだけ最小限の物を持って出発した。早速、ライトを点灯させて教えてくれた道を進む。
 急に明るい所から闇の中へ独りで入り込むと、少しゾッとしてしまったが、生憎霊感とかは一切持ち合わせていないので杞憂に過ぎないと思いさらに登る。けど、片手は懐中電灯で埋まっているので気を付けて一歩一歩を確かめて踏む。
 それでも元々高度の低い所にあるから、上の方にありそうなとてつもない危険箇所は無いはずだ、なんて思っていると逆に足を取られてしまうオチが待っているんだけど、そんな危ない所ではなかったし、目的地も直ぐだった。
 人工的に作られた空間のようだけど、元々は自然と開けていたのかもしれない、そんななんとも言えない場所だった。
 しかし、僕が見るのは下ではなく上。
 そう。あの、キラキラと輝く何十、何百という星々。
 ―――――。
 一瞬、意識が飛んだように、僕は何も考えず、ただただ見ていた。
 それは恐らく感動という理由が一番正しいのだと思う。そう思えばそれがしっくり来るし、他の理由が思い付けばそれもしっくりきそうな、なんだか不思議な感じだ。
 これを写真に撮っても、果たして僕がこの時見たままが写るかどうか、怪しい。いや、間違いなく無理だろう。安物だから、という話ではない。
 限界なんだ。どうやったって無理なんだ。この眼で見る以外に、これと全く同じ感動を得る事なんて出来ないんだ。
 それでも一応シャッターを押すが、その行動に殆ど意味は無かった。ただただ無いと分かっている可能性を信じずに期待しているだけ。
 何時の間にかカメラを横に置いて足を伸ばして座っていた。夜空を見上げてじーっとしている。それだけで満足感が溢れている。今まで本の世界でしか知らなかったようなものが一気にやって来て、半分混乱しているのかもしれない。
 この大空の彼方先には、何千何万何億という星がある。それぞれが生きていて、あの光はその星が生きている証。でも、あの光は遠いものだと僕らが生まれてくるずっと、ずっと前に放たれた光。もしかしたら、今はもう消えてしまっているかもしれない星の輝き。遠い遠いこの地球にまで届くような煌き。そこに意味や理由は無いのかもしれない。
 無限に広がる宇宙。その中で生まれた幾つもの大地。そして、偶然と偶然が重ない、奇跡のように誕生した地球。何億という時間をかけて徐々に形成をして行き、僕らの祖先が育み、少しずつ少しずつ、今も形を変えながら生きて行く中で生まれた、僕。
 天文学的数字、なんて言われるような値。それでも今、確かに僕はいる。ここに、存在している。そこに意味や理由は無いのかもしれない。
 僕が何故神秘的なものや幻想的なものを好むのにも、意味や理由は無いのかもしれない。この世界が出来た事も、偶然とか必然とか、そんな観念や定義なんて無いのかもしれない。
 でも、分かる事は一つだけある。
 僕らは今、存在している。


 頭の中がスーッとしてきた。
 目を瞑れば、そこに何かがキラキラ輝いているような気がする。星なのか、別の何かは分からない。けれど、それはなんとなく温かい感じがする。触れてもいないのにそんな風に思うのは変だけど、僕はもう既に、何時か何処かで感じた事があるのかもしれない。
 一つ一つの鼓動が聞こえる。僕の心臓の音、風の音に風に揺られている木々や草花の音、水の音、虫の音、人の音。まるで小さなお祭りが開かれて、あちこちで太鼓の音が木霊しているようだ。耳を澄ませば、まだまだ聞こえる。
 においと言うのは普段何も思わなければ感じなかったりする。だけど、今は、普段使われているニオイとはまた違う、別のにおいがする。他の動物はそれで物とかを判断するなら、なるほど、もしかしたらこれがそのにおいかもしれない。
 今何か口ずさめば、誰かが返答をしてくれるかもしれない。植物か動物かは判断出来ないと思うけど、会話が成立するかもしれない。でも、実際はあっち行け、とかそんな警戒心剥き出しの野生に生きる者の発言かもしれない。
 最初は頭の中だけだったけど、段々と体全体に巡って行くように、肌で何を感じたりしたような気がした。鼓動の響き合い、手と何かが触れ合う瞬間、風から流れてくる振動、細かくて気付けないものもあるかもしれないけど、少しずつ感じ取れてきた気がする。
 まるで全てに融け込んで一体化しようとしているみたいだ。
 僕が僕じゃなくなるのは、それは要するに僕が消えてしまう事になるかもしれない。
でも、それは違う。僕は、全てになるんだ。神化とかそういうのではなく、一体化になる。それなら僕はここにもあそこに、何処にでも存在している。皆が受け入れてくれるなら僕はこの星の至る所でこの世界を見続ける事が出来る。
 それなら、そうなるなら素晴らしいかもしれない。
 誰にも起こらない事が身に起きたとか、全てを支配出来るかもとか、そんな事じゃない。もっと、もっと単純だけど、伝わりにくい。誰もが思っていた事なのかもしれないけど、それを皆は忘れてしまったから、解らないのかもしれない。
 この山の頂上はまだまだだ。だけど、僕にはもうそんな事はどうだっていいのかもしれない。頂と言うなら、さらに上があるじゃないか。そしてそれは、果てしないじゃないか。
 そう。それなら。僕が今まで思っていた事なんて、些細な事じゃないか。
 そう。だから――、


 世界は、広いんだ。頂は、果てしないんだ。


 ……気付けば、自分が自分ではなかったような感覚に襲われ、ふと気付けばどれくらいここにいるかは判らないが、結構居続けていた事だけはなんとなく判る。
 もしかしたらもう就寝間際かもしれないので急いで戻らないと。そう思って起き上がろうとしたが、ずっと同じ体勢でいたからかなのか、麻痺して体が自分のじゃないような風になってしまい、動こうとして中々動けない。
 ここで無理にやっても逆に良くないと思うので、仕方なくもうちょっとこのままの状態でいることにした。
 同時に、手足の感覚を確かめる。痺れているという感じはあんまり無い。この場合どう例えば良いのだろうか。幽霊に体を乗っ取られた……は違うな。
 兎に角少しずつ体を動かして慣らしてから立つ事にした。それでも中々思うように機能してくれない。けれど、ここに何時までも居続けても……。
 その時、ふいに忘れていた、あの夜空を思い出した。
 どうせならもう一度あの感動を得ようと上を見上げたが、そこには先ほどとは違う別の星空があった。僕が見た、あの一瞬の輝きは流れ星のように既に何処かへ行ってしまった。
 多少の後悔はある。もう少し見ておけば良かった。というか、なんで急に意識が飛ぶような事になったのかが解らないが……けれど、だからこそ輝いて見えたのだと思うし、きっとそうあるべきなんだと思う。
 自分でもなんとなくでしか分からないが、まぁ、半分適当にそういう事にしてしまう。そして何も考えずに帰ろうとしたら、足は自然と立ち上がり僕の体を宿舎へと運んで行く。
 軽やかに歩いている最中、それまで決して考えないようにしていた事が一つあったが、もうこの際なんでもいいから何か言われた時用の適当な理由になりそうな事を口にする。
「やっぱり、寝ちゃったのかなぁ……」
 妥当であるが故に釈然としない。真相は藪の中、と言ったところだろうか。しかし、それも正直どうでも、と言えばそうなってしまうのだから、自分も随分気楽になったもんだ。
 スキップでも出来そうな、そんな暢気でいながら帰ってみると、声を耳に感じ取る前に肌が何かちょっと嫌なもの触れた感覚を得てしまった。
 少し騒がしかった。どうやら誰かと誰かが小競り合いか何かをしている模様。
「どうしたの?」
 既に敷かれていた布団の上で何やら言い争っている二人と見た後、仲裁をしようとしている親友に事の経緯を訊いてみた。
「こいつが自分のお菓子が何時の間にか無いから誰かに食われたんじゃないかって言うんだよ。んで、今、ご本人曰く容疑者の彼と話し合い中」
 突然声を掛けられて、それが僕だったので少し驚いたようだが、何も言わずに説明してくれた。しかし、声色とその言い方は既に厭きていた。この件に関わってしまった事を後悔して、もううんざりだから誰でもいいから終わりにしてくれ、となんとなく言っているような気がした。
「お前ら、んな事でいちいち争うなよ……」
「俺は別に争う気はねぇよ! ただ、こいつが勝手に突っかかってくるんだよ!!」
「そうやって逃げようとするんだろ! 判り易過ぎるんだよ!!」
 一応話の路線はズレていないみたいだけど、どっちも熱くなって見えなくなってしまっているのは確かだ。
 何でも彼の好きなお菓子(チョコレート)が何時の間にか食われていたそうだ。それは夜か明日にでも食べようとしていたらしいんだけど、夕飯を食べ終わってバッグを見たら包み紙とかが破かれていて、夕飯前にバッグを開ける事が出来た人物、実際に一度開けた人物に今取り調べという名の喧嘩をしているらしい。
 ……多分、当人以外の、ほぼ全員が思っているだろう。そこは敢えて言わない事にするけれども……なんていうか。最初からこんな感じではなかった事を願う。
 でも、この二人はお互いを分かり合えていないのかな。だから争い事なんてしてしまうんだと思う。もう少し歩み寄れてちゃんと話す事が出来るならこんな風にはならないはずなのに。どうしてこういう事になってしまうんだろう。
 僕は下を向きながらあの空を思い出した。そして、あそこで感じた事を思い出した。失われた記憶の中に眠る、一つの事。とても簡単に見えてとても難しい、でも誰にでも分かる事で誰にでも思う事が出来て、そして、大切なもの。
「……いいじゃん、もう」
 気付けば僕の口は動いていた。無意識の中、自分が発言したものを、後から理解した。
 二人は一斉に火の粉をこちらに撒き散らして来た。それでも、その火の粉すら氷のように冷たく見えてしまう。
「そんな風にしているならさ、空を見ようよ。今は分からないけど綺麗だったよー、都会じゃあ決して味わえないよ?」
 皆が僕に目を向けた。その目に込められているものを感じながら僕は続ける。
「今夜しか見られないかもしれないよ。お互いの言い分を聞き合う事は後でも出来るよ」
 普段、こんなこと絶対言わない、ましてや皆の前でこんなハキハキと喋るなんて緊張してとてもじゃないが出来ない。
 さらに続けようと口が動こうとするが、何故かそこで止められた。
「こいつの言いたい事は解るだろ? 両方とも少し頭を冷やしてきな」
 副部長らしい仲裁だったのかは知らない。それよりも僕は何だか勝手に解釈された上に阻まれて言いたい事が全部言い切れず少し不満だけど、確かにそういう風に聞こえない事もない感じだったのでこれ以上は言わない。何より一番は二人の争いが終わる事だから。
「お前、アホだな」
 分かり易い嫌味だったのに、何故か労いや感謝の意味が込められていた気がした。


「それで、結局何だったの?」
「んー、まぁ、勘違いだったみたい」
「へ?」
「だからさ、本当は後で食べようと思っていた事を忘れて途中で食べちゃったんだって。それで、その事もすっかり忘れていたらしいよ」
「ぷっ、何それ、アホだねぇ〜」
 その後については敢えて割愛してみる。ご想像にお任せ、というか想像しなくても大体分かると思うので、その通りでいいんじゃないかな。
「ていうか、あんたもアホだよ……。一人で星空を見に行って途中で意識が飛んで、帰ってきたらいきなり喧嘩の仲裁みたいな事するなんて」
 自分でも後々思い返すと結構恥ずかしい。記憶に無いならまだしも、仲裁の時は完全に残っているのだから、終わった後の皆の眼差しは一際凄かった。どう見られていたのかは想像するしかないけど……うぅ、なんか次会う時が微妙に怖い。
「全く、無茶して……」
 そう言いながら彼女は少し沈んでしまった。
「だ、大丈夫だよ。なんともないって。今はほら、この通りだよ」
 慌てながら自分の無事をアピールする。何が原因で落ち込んでしまったのか知らないけど僕の所為だと思う。
「あはははっ、はいはい、そうね……」
 笑っているはずなのにその笑顔は何処か暗い。
 こちらから何か別の話題でも振ろうかと思ったけど、上手く思い付かない。彼女も黙っているだけだし、どうすれば良いのか分からない。無言がただ続くだけ。こういう重たい空気は好きじゃない。それよりも彼女が沈んでいる事が心配だ。
「そういや、あんたが撮った写真は無いの?」
「え、あ、うん、あるよ」
 急に言われて少し慌ててしまい、そのままの勢いでバッグの中にある小さなアルバムを取り出そうとしたらもたついてしまった。
 アルバムは結構な量になっていて、初日は勿論のこと、翌日も殆どカメラを片手にしていたので色々な風景がある。人も多少写っているけど、大部分が自然だ。初めの方は駅の風景や山に入る前の風景で、その後は川や草花、そして木々が徐々に占めて行き、最終的には頂上からの風景が沢山登場する。その後は下りなのでどんどん戻って行く感じだ。
 現像した後に再確認したけど、やっぱり自分の足で赴いて自分の目で見ないとあの時みたいな感動は得られない。逆に言えば本で感動を得るなら、実際に行った時にはどれ程のものなのか期待をしてしまう。
 でも、写真は思い出も残す。写っているもの自体は素人が撮影したのだから良いとは言えないけれど、一枚一枚を見ているとあの時が蘇る。ふいに視界が思い出の場所になってしまう。そして、同時に頭の中で懐かしいものが見られる。そんな素敵な感覚に陥る。
 今も浸っている僕がいる。だから、そのアルバムはとても大切な思い出の品だ。
「ふぅーん……」
 パラパラと捲りながら彼女は呟いた。その声で僕は現実に引き戻された。
 どうかしたの? と訊こうか思ったがまだ見ている途中だったので止めておいた。しかし、彼女は流すように見ているので直ぐパタンと閉じてしまった。
「どうかしたの?」
 結局思った事と全く同じ事を言っている僕がいた。
「いや、その……」
 何やら言葉に詰まっている模様だけど、一体どうしたのだろうか。気になる。
「……良いなぁ……って……思っただけ……、よ……」
 横を向いて恥ずかしそうに彼女は言った。
「何が?」
 そう言われても主語というか、まぁ、何に対して良いと思ったのか解らない。
「だから……そ、その」
 今度は焦っている。何時もはこんな風にコロコロと表情が変わらない。普段は決して見せない事なのでちょっと面白い。同時になんか、こう、胸の辺りがほんわかとする。
「……………あんたの、写真よ」
 下を向いて独り言みたいに小さい声だっただけど、聞き取れた。
 僕の……写真?
「そんなに良かった?」
 自分で言うのも何だけど、お世辞にも良く撮れているとは思えないものが幾つもあった。残念、惜しかったとは思う。でも、それは撮影者以外はあんまり思わない感想だし。
「いや、そうじゃなくて……」
 どうやら違うらしい。何がどう違うのかさっぱりだ。
「まぁ、その、あれよ、あれ。風景が綺麗だったんだなぁってなんとなく分かるし、撮っている時がすごい充実していたっていうのもなんとなく分かるし、写っている人が結構笑っていたから楽しそうだっていうのもなんとなく分かるし……」
 よくは分からないけど、褒めてくれているのかな、これは。
「ほ、ほら。私、あんたが行くって言った時、反対していたじゃない。絶対無理だって。だけど、話を聞くと結構頑張っていたみたいだから、そ、その……」
 あれ、謝ろうとしているのかな?
「別にその事なら気にしていないよ。むしろ、心配してくれてありがとう」
「えっ!? や、べ、別にそういう……………ま、まぁ、いっか」
 さっきも思ったけど、感情の起伏がすごい激しい。どうしたんだ、一体。見ていて面白いしなんか和んじゃうけど、ちょっと心配になってきた。
「よくは分からないけどさ」
 このままだと中々先に進まないし、彼女も本当に言いたい事が言えないままになっちゃいそうだから、僕が主導権を握る。
「つまり、何が言いたいの?」
「!!?」
 ここはもうストレートに訊く。別に何時まで経っても遠回しにしている事にイラついている訳ではない。僕までも遠回しに言っては意味が無いからだ。
「だ、だから、つまり、その……」
 結局慌ててしまっているけど、でも、きっと彼女なりに言葉を選んでいるんだと思う。
 ちょっとした仕草を見ながら返答をじーっと待つ。顔を見て、どういう表情なのか見る。
 ……………あれ、そういえば。
「えっ、と……ね」
 今度はこっちが驚いてしまった。でも、そのまま話を続けさせる。
「あ、あんたが特に問題無く行けるならさ……、わ、私も……」
 そこで後ろを向いてしまった。
 けど……それでようやく理解した。
 そっか。そういう事か。だから、さっきから。なんだ、そういう事か。
 僕は初めて優勢になった気がして少しからかおうかと思ったけど、それは流石に怒ると思うので、僕も言葉を選ぼうとする。
 でも、そこに選ぶなんて余地は無かった。いや、最早考える事すら無かったかもしれない。あの言葉を聞いてから、初めから返事は決まっていたんだと思う。
 無意識の内に僕は彼女の肩にそっと触れる。
「じゃあさ、今度、山とかそういう所じゃなくてもいいからさ、一緒に行かない?」
 その言葉を聞いて彼女は振り返る。そして、改めて僕は思う。
 そういえば、さっきからずっと、顔を赤らめているや。
「……わ、私は構わないけど……」
 もう直視は出来ないのか、そっぽを向きながら小声で返事をした。


「そういえばさ」
「な、何?」
「そろそろ僕の事を『あんた』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでくれないかな?」
「……あんたが私の事を名前で呼んでくれたらね」



終 




後書小言あとがきこごと

 はい、お久し振りです、皆さん。水木です、真です。名前、覚えていますか?
 このコンテンツ(小説)の更新も大分、ご無沙汰と言ったところでしょうか。

 文章自体は書いたり書いていなかったりしていたのでまだマシですが、このあとがきは久々過ぎるので少々震えています。
 最後にアップした作品を見た瞬間……一年近くですか、いやはや、恐ろしい。
 時間は、気付けばあっと言う間、と言うのは本当ですね。

 さて、前置きはこの辺で、まずは一言。

 有難う御座いました。

 この作品は、僕が2006年現在通っている高校の文化祭で、(文化祭当日数週間前に突如入部した)文芸部の部誌に載せた作品を、ちょっとだけ見直した物です。ってことで高校関係者は既に拝見済みかもしれませんね。
 ていうか……文化祭があったのは11月の頭なので……危ない危ない。本当は直ぐ載せるつもりだったのに、ね。

 そんな事を思いつつも、まぁ、本編について少し語りたいと思います。

 まずは、既にお気付きかと思われますが、登場する人物に名前がありません。
 「登場人物が誰一人、氏名を述べていない」
 では無く、
 「登場人物に誰一人、氏名を付けていない」
 です。
 これは勿論意図的です。だからと言って深い意味は御座いませんが。(ぇ
 敢えて言うなら「名前が無くても」かな。「無くても」に続く言葉は適当にご想像を。
 まぁ、一応最後まで分からなかった人の為に、あのラストがある訳ですが、何か、そんな事よりも「青春」って感じが出ていて気にならない……と言うより恥ずかしいですな……。
 しかし、まぁ、当初「今回は名前を無い方向で」と決めた後、何度か苦労しました。
 「山岳部」の名前は助かりましたね、正直。
 余談ですが、僕が中学一年所属していた部活は「登山部」と少し違ったり。

 後は、……正直これと言って書きたい事が無かったりします。
 あると言えばありますが、そこらへんを書くと一層長くなりそうですし、
 そういう箇所は読んだ方々に委ねた方が良いかなって思います。

 ただ、まぁ、文章そのものについては未だに上達していないのでどうかその辺りは大目に……。
 文字数やらInternet Explorerの大きさやらで読み難いのも勘弁して下さい。
 僕が何時も使っているWord(36行、41桁かな?)が基準なので、書いている時は句読点とかページの区切りとかそういう事も考えて書いているのですが、HPではどうすれば良いのか全く分からないです……。
 そう考えると、部誌は中々良い感じだったなぁ、と思う。
 だけど、自分P.N.である「水木 真」って、なんかびみょ〜だなって思いました。字画とか悪いのかな。


 さて、そろそろ小言と言いつつ長くなってきましたのでこの辺で。
 というか、何時の間に「あとがき」から「後書小言」になったん……ってこれが初か。
 小説の書き方もそうですが、こういう箇所も試行錯誤して日進月歩だけど進化して行こうと思うので、
 まぁ、少し変わったな〜とか思って下さい。

 さてさて、では、今度こそ。

 では、また。



2006/10/6 水木 真 

 (最後の余談)
 HPにアップしたのは11月20日ですが、実際に書き終えたのは10月6日、何気に自分の誕生日。
 それから正式的に入部して原稿(フロッピーにWordファイルだけど)を部長さんにお渡しする際、一度推敲して、
 そして現在に至るので時間がおかしいかと思いますが、なんとなく最初に書き上げた時間にしてみました。自分の誕生日だし。

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