僕が見た幻想郷

 プロローグ 彼岸花はまだ咲かない



 何かにつまずいた訳でもなく、僕は倒れた。受身を取る力はわき上がらず、足元に生い茂っている草花は衝撃をやわらげてくれたとは思えない。
 痛い、疲れた。駄目だ、動けない。
 空の陽気と周りにある緑が僕を落ち着かせ、そして、じわりと汗が流れてくる気配を感じた。
 ここは一体、どこだろう。
 強制的に休憩をとることになって振り返ると、僕の記憶は曖昧になっていた。
 なんで僕は倒れるまで歩いていたんだろう。そもそも、なんで僕は歩いていたんだろう。
 土のにおいに少し不快感を覚えて、うつ伏せから別の体勢に変えようとする。でも、体はまだ疲れきっていてほとんど動かなかった。
 なんで僕はここにいるんだろう。
 記憶障害になったのかもしれない。ということは迷子だ。困った、どうしよう。
 いや、それよりも、なんだか……眠い。
 呼吸は整ってきたのに体力が回復した気がしない。体は地面と一体化してしまったのか全く動かず、手足の感覚がどんどん薄れていっている気がする。
 だけど、草花たちが太陽の光を僕の代わりに浴びてくれて、根が水を吸い上げていて、汗をかいたせいもあってか、温かくて涼しくもあって気持ちいい。
 そうして徐々に、僕の体は冷たくなっている。
 それがどういうことか、僕の頭は分かっている。けれど、同時にそれを受け入れている気もする。このまま眠ってしまえば……。そう思えば思うほど、意識が遠のいていく気がする。
「おや、珍しい」
 でも、それを遮る音が、頭の上の方から聞こえた。
 浅い眠りから覚めた僕は、ちょっとだけ力が戻った腕で体を少し起こす。
 誰かが僕を見下ろしていた。
「こんな場所に、生きた人間が寝転がっているとは」
 声色は明るめの女性のものだった。若そうだけどしっかりとした感じがした。
 でも、容姿はよく分からない。どうやら、僕の目はまだはっきりしていないみたいで、ぼやけて見えてしまっている。なんとなく、やや色合いの強そうな服を着ているとぼんやり認識して、次にその人の近くに何かがあると分かった。
 それは、そう、ふにゃふにゃして見えるけど、僕には巨大な鎌に思えた。
 世の中、鎌を持ち歩く人なんてまずいない。
 そう、だから、
「……死神さん?」
 思わず口に出してしまった。
 とんちんかんな言葉に女性はどう対応してくれるのか不安だったが、
「お、その通り。やっぱり、これを持っていると分かりやすいか」
 嬉しそうな声であっさりと肯定されてはどうすればいいのか困る。
 でも、つまりは、
「お迎え、ですか?」
 そういうことなんだろう。
「いや、違うよ。あたいはただ散歩していただけさ」
 そう言って死神さんは辺りを見渡した。
「それにしても、どうやってここまで来たんだい?」
「それが……よく覚えてないんです」
 むしろ僕が聞きたいくらいだ。
「それなら尚更、よく無事でいるねぇ」
「いや、ぶっ倒れていますから……」
「何を言っている、五体満足でいるんだから幸運だよ。運が悪ければ妖怪に食べられているさ」
 死神さんはけたけたと笑っているが、とても物騒な内容だった。
 いや、それよりも、妖怪って? そもそも、死神って?
「あの、ここって、どこですか?」
「なんだ、何も知らずに……ん、よく見ると、見慣れない服装だね。外の世界から来たのか」
「外の世界?」
 一体、どういう意味だろう。
「当たりだね。ここは幻想郷、お前さんが住む世界から切り離された世界さ」
「幻想、郷……」
 聞き慣れない言葉だ。
「そうか、お前さんは迷い込んでしまったのか。なるほど、なるほど」
 死神さんは一人で納得してしまった。僕にはまったく分からない。
 体の重さは変わらず、現状も理解できず、どうすればいいんだろう。
 しかしその時、死神さんが突然冷たい声で言う。
「お前さん、まだ死にたくないかい?」
 僕はすぐに答えることができなかった。答えは決まっているはずなのに。
「はい……、まだ死にたくないです」
 ただ、それを口にしたと同時に、手足の感覚が少し戻ってくるのを感じた。
「元の世界に戻りたければ、博麗神社へ行くといい」
 死神さんが言った元の世界とは、きっと、僕がいた、現実の世界。
「それはどこに……あるんですか?」
 腕に力が戻り上半身を持ち上げることができた。でも、意識を少しでも欠くと力が抜けてしまいそうで、まるで崖にしがみ付いているみたいだ。
 僕の質問に死神さんはすぐ答えてくれず、体をゆっくり左右に動かす。そして、止まったと同時に鎌を持っていない方の腕をまっすぐ伸ばした。その方角の先にあるのだろう。でも、その方角は、僕が向いている方角を北とするならば南東になってしまう
 ようやく足にも力が戻り、ゆっくりと起き上がってまずは四つんばいの体勢をとる。それでも世界はまだぼやけていて、死神さんの顔もまだはっきりとは見えない。
「何れにしろ、あたいの舟に乗るにはまだ早いよ。縁があったら、また死んでから会おう」
 死神さんはそう言って、どこかへ歩き去ってしまった。
 お礼の言葉は、なぜか出てこなかった。
 草花を踏む足音が聞こえなくなってようやく僕は立ち上がることができた。
 結局、僕は死神さんの顔をしっかりと見ることはできなかった。
 死神さんが示してくれた先は広く遠く長い。
 今度はどれだけ歩けば辿り着くんだろう。
 でも、僕は歩き出す。
 一歩ずつ、確かな音を聞いて。






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