春はもうすぐ

水木 真 

 春の陽気が近づいている二月の末、僕は行きつけの喫茶店に入るかのように目の前の扉を開ける。
「こんにちは、先生」
 最初から部屋の中に誰がいるかは分かっている。軽やかに挨拶を済ませ、扉の近くにある戸棚から茶筒を取り出した。
「お湯、沸いていますよね?」
 返事がくる前に小さな給湯室へ行き、置いてある急須に茶葉を少し入れ、ポットのお湯を注ごうとしたらお湯の出具合が悪かった。
「残りが全然なかったので、沸かしておきました」
 両手にマグカップをつかみながら給湯室を出て、左手に持っている方を机の上の邪魔にならない程度の場所に置いた。
 先生は椅子に座って書類を読んでいる。
「……ありがとう」
 お礼はため息まじりだった。
 そして、先生は僕が淹れたお茶を一口飲んで穏やかな表情になる。
「で、毎回言っていると思うけど、何か用でもあるの?」
 残念ながら一瞬で目つきが悪くなってしまった。
 先生は僕が来ると大概、不機嫌な顔になってしまう。今日、先生の顔を見たのはさっきが初めてだったが、それまでは恐らく今みたいな不機嫌な顔をしていたに違いない。
 ただ、それも今日に限った話ではないので僕は気にしない。
「いえ、特には」
 機嫌が悪くなる原因が僕の今のような発言だとは当然分かっている。しかし、それでも僕は大学に行けば必ずここへ立ち寄り、先生と言葉を交わしている。
「あなた、ここが研究室だって分かっているよね?」
「もちろん」
 このやり取りも今更だ。去年今年を合わせたら両手では数えられない。しかし、先生は懲りずに何度も何度も訊いてくる。
「ここに来る余裕はないんじゃないの?」
「何故ですか?」
 先生は僕と話し合いながらも机の上にまとまって置いてある書類を読んでいる。いや、逆か。とにかく、ずっと紙に視線をやっていたのだが、ついに体の向きを僕の方へ動かしてくれた。
 そして、ため息を一つ吐く。
「就職はどうするの?」
 嘆かわしさげにこちらを見つめ、何で私がこんなに心配しなくてはならないのか、と言いたげな顔をしつつ左手で頭を少し掻く先生に僕はこう答える。
「あ、僕は家業を継ぐんですよ」
「え?」
 そこで先生は不機嫌な表情と一瞬あった穏やかな表情以外の、驚いた顔を僕に見せてくれた。目が少し大きくなったまま固まってしまい、会話が途絶える。
 しかし数秒後、先生はようやく何かに気付いた。
「あれ、あなたの実家って確か……」
「はい。僕の父は地元の役所に勤めていますよ」
 先生はもう一度、少しだけ硬直してしまった。そして、直ぐに意味を理解して、険しい目つきで僕をにらむ。
「ごめんなさい、冗談です」
 怒られる前に頭を下げ、僕は素直に謝った。
 先手を取られた先生は頭痛にでもなったのか頭を抱える。
 僕は先生のその姿を見て「かわいい」と素直に思った。口に出したらどうなるか予想できているので決して口には出さないが、思った。
「本当は院に行くことになりました」
 もう少し嘘を言い続けてもよかったかもしれないが、今日ここに来た理由を忘れない内に言うことにした。
 だが、これも嘘だと思ったのか、先生は体勢をほとんど変えずに怪訝そうな顔をこちらに向けてくる。今日に限った話でなく、僕は先生をよくからかってしまうのでたった一度の嘘でも信じてくれなくなってしまうのだろう。
「本当ですよ。今度、確認してみて下さいよ」
 手を上げて降参、嘘ではないアピールをする。
「じゃあ、何で今頃になって言うの?」
「単純に言い忘れていたからです」
 僕はきっぱりはっきりと理由を述べた。
 先生はそこで一旦黙り、頭を下げ、そして、深い深いため息を一つ吐いた。
「いや、てっきり先生にはいの一番に報告していたとばっかり思っていたんですが……すみません」
 流石に申し訳なくなってきてしまい、僕も頭を垂らす。
 でも、僕は直ぐに付け足す。
「でも、まぁ、いいじゃないですか、僕と先生の仲なんですから」
「……いや、私とあなたの仲って言われても、そもそも、接点が全然ないよね」
 どうやら僕は間違えて墓穴を掘ってしまったと言うか、形勢が逆転してしまう一言を口にしてしまったらしい。
 先生はゆっくりと椅子から立ち上がり、不敵な笑みを僕に見せてきた。
「あなたは確か、一昨年の授業でちょっと知り合っただけで、学部も違えばゼミも違いますよね」
 攻守逆転。途端に強気の姿勢を見せる先生は僕に半歩近づいて圧力をかけてくる。僕は笑いながら先生に合わせて半歩下がり、視線を逸らす。
「いや、だって、それは仕方ないじゃないですか、根本の分野が違うんですから」
 言葉を濁しながら後退る僕を先生は逃がしてくれない。今までの分を返してやるという意気込みが伝わってくるほどだ。
 でも、僕は決して「まずい」とは思っていない。
 傍にあった机にずっと持っていたマグカップを置く。
「それに、そんなの関係ないですよ」
 お互いの姿勢はそこで一度止まり、均衡が保たれた。
 僕は今が形勢を元に戻す機会と知る。
「出会いは平凡以下でも、そこからが大事じゃないですか。むしろ、僕のここまでのプロセスは中々にすごいと思うんですが、どうでしょうか?」
「そんなの私に訊かないでよ……」
 自分に関することを質問されると直ぐに逃げてしまうのが先生の悪くも可愛い癖だ。今の質問は悪ふざけだが、好きな食べ物とか趣味を把握するまでも時間がかかったと言えば何となく分かってくれると思う。
 今度は先生が話を逸そうとする番になり、僕に背を向けて椅子に座り再び書類に目を通す。ちゃんと見ているかは怪しい。
「お祝いに何処か連れてって下さいよ」
 顔が見えない分、僕の発言にどんな反応をしてそれを隠しているのか想像ができる。それはそれで楽しい。
「嫌よ、そんなの。可愛い教え子って訳でもないでしょ」
 きっぱりと拒絶の言葉を述べられてしまったが、口調は厳しくなかった。軽くあしらう程度で、余裕ができたのかもしれない。
「えー、でも、多分、他の人たちよりも研究室に来ていると思いますし、手伝いとかも色々やっていたじゃないですか」
 こちらも余裕があるアピールをする為、軽めの口調で追撃をした。
「でも、それはあなたが好きでやっていたことでしょ」
 若干、勝ち誇った言い方だった。
 確かに、そう言われるとその通りではある。
「あなたにはちゃんと仲間がいるのは知っているんだから、その子たちと行きなさいよ。可愛い子もいるんでしょ?」
 聞き分けの悪い子をあやすかのように先生はこっちを向いて言ってきた。
「いや、それはそれ、これはこれです。僕は先生と行きたいんです」
 だって、未だに一度も行ったことない。
 我慢し続けている身に文句を言う権利はないし言うつもりもないが、僕だって淋しいし悲しい。避けられているとかじゃなくて、純粋に嫌われているとしか思えない時だってある。
「いいじゃないですか、たまには」
 でも、僕はそれらを決して口には出さない。出した瞬間に僕はこの研究室に二度と足を運ぶことがなくなる、そんな気がする。
「……そうね、たまにはいいかもしれないわね」
 先生は窓の外に視線を移し、感慨深そうに呟いた。
 外は陽気な空とそれを浴びて萌える草木。そして、下を見れば楽しそうに笑っている学生がちらほら見える。
 横顔の瞳からはほんの少しの憂いが感じられる。
「たまには他の教授とも行ってみようかな」
 的外れな発言だった。
 恐らく、僕に一瞬の期待を持たせてがっくりさせようとしたのだろうが、期待を持たせるような発言をした時点で裏があると思っていた僕にはノーダメージ。むしろ、がっくりさせようとした言葉がそれですか、とつっこみたくなった。
「教え子とは行ったことないんですか?」
 今度は純粋な質問。
「んー、誘われはするんだけどね」
 先生も純粋に答えてくれた、が、はっきりしない。
「大変な身なんですね」
「まぁ、そんな感じだね」
 詳しいことは知らない。全てを知っている訳ではない。
 だから、それ以上は言わない。
 嘘をついているのかもしれない。逃げているのかもしれない。
 でも、僕は先生を信じる。
「いいですよ、僕はまだまだ待てますから」
 僕にできることは待つだけ。
「……もう、君も頑固だね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
 にっこり笑って先生を見つめ、それに気付いた先生は視線を僕の方に向けてくれる。でも、直ぐに逸らしてしまった。
 なに、慌てることはない。
 先生は再び書類を見つめ直し、ページを一つめくったところで動きを止める。
「でも、そうね。一度は行ってみたいかもね」
 今度は企みを含むような感じではない。頭の中に思いついた言葉がポロッと口から零れてしまったみたいな感じだ。
「本当ですか?」
 だから、僕もつい咄嗟に訊いてしまった。
「まぁ、何だかんだでお世話になっているし、一度くらいお礼はしないと罰が当たるかもしれないからね」
 理由はとって付けたようなものだった。いや、まさにその通りだろう。
「それに、よくもまぁこんな人間のこんな態度に何時までも飽きずにいるなって褒める人が一人くらいいた方があなたも嬉しいでしょ」
 僕に対して礼を言っているのか自嘲しているのか判断に困るところだが、でも、先生にしては随分、前向きで好意的な発言だった。
 知り合って最初はこういうことを言っていた時もあった。でも、僕の気持ちに気付いてからは避けるようにしていた。
「どうしたんですか、急に?」
 言ってから、自分の馬鹿、と心の中で罵った。あまりにも正面過ぎる。それに、自ら冷静に考えさせる時間を与えてしまった。
「そうね……」
 先生はゆっくり考え始める。席を立ち、窓に近づいて外の景色を眺める。僕も先生に釣られて窓に顔を近づけた。
 まだ寒い日もあるけど、今日は暖かい。これから段々と暖かくなっていく。
「春だから、かな」
 それはまるで独り言。僕がしっかり聞き取らなかったらそこで終わってしまって、二度と喋ってくれないそよ風の一言。
 だから僕は即座に言葉を告げようとした。でも、先生は一人陽だまりの中で気持ちよさそうに寝転んでいそうな顔をしていて、それを妨げたくないと躊躇してしまった。
「そうですね、春ですね……」
 やや間を置いて僕も独り言のように言った。
「春は、気分が安定しないよね」
 どういう意味で言ったかはあえて深く考えず、僕は先生に続ける。
「でも、悪くないですよね」
 僕は窓から離れて放置していたお茶をすする。まだほんのり温かくて、苦味は先生の好みに合わせて茶葉を少なくしたからさほど感じなかった。
 それでも、もういいや、と手を離して先生に目を向ける。先生はまだ外を見ている。見慣れた後ろ姿がそこにある。
 変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
 でも、春はやってくる。
 きっと、もうすぐ。



わり




後書小言あとがきこごと

 どうも、水木です。誰かセンスや技術を分けて下さい。

 これは2009年度の某授業で書いた作品です。
 授業で小説を書くというのは初めて……ではないのか。
 まぁ、それは中学時代ですし、原稿用紙に書いたし、いわゆる「黒歴史」なんで。

 授業と言っても小説に関する専門的な授業ではなく、日本語に関する授業でして、『最後の方はやる事がないから小説でも書いて』って感じらしいです。すみません、その時、休んでいました。
 他の人よりも遅れたのですが、まぁ、他の人は小説とか詩を書いた事が無いので気付けば小説と詩の二作品を書いていました。詩は恥ずかしいので、機会があれば。

 まぁ、授業の話はこれくらいにして、内容について。

 とりあえず、文化祭が最後だったのでネタが無くて困りました。短くて読み易くて余り濃く無い話はないものかとうーんうーん電車の中で唸っていたら、「そうだ、大学の話を書こう」と思いつきました。
 と言うのも、僕は大学生になる予定が無く、また自分が経験した事ない作品は書くのが怖いと言う小心者なので「大学生を主人公にした話」はきっと今後書かないだろう。でも、一度くらいは書きたい。
 よーし、書いちゃえー。
 こんな感じです。確か。
 とは言っても、やっぱり大学の素性(?)はよく分からないので、なるべく専門的な感じが出ないように、そして、適当に書きました。友達に色々聞いておけば良かったですね。

 書き方はわがままよりもやんわり書く事を意識しました。
 とにかく、授業内で発表し感想を頂戴する予定でしたので、読む人の事を考えて書かねば! と頑張りました。ある意味それがテーマ。結果は割りと好評で良かったです。建前? ……ですよね。
 何にせよ、これも勉強になったので良かったです。読者が目に見えるって重要。

 キャラクターの名前に関しては、そもそも無いので。
 無いのはわざとです。面倒だったとか考える時間が無かった、も含みます。


 てな訳で、今回は頑張って抑え気味にしました。段々慣れてきたかも。

 これで高校生の間に書いた小説は終わりです。形になっていないものは幾つもあり、形になりきっていないものも幾つかあるので、全部書ける日が来る事を願って頑張ります。

 それでは、この辺りで。

 ここまでのお付き合い。

 本当に。

 どうも。

 「有難う御座いました」



2010/4/1 水木 真 

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